カルチャーレビュー
- 2026.08.01
■2年以上ずっと続いている『BUTTER』読んだ?
英国で、柚木麻子・作の小説『BUTTER』が売れに売れている。英国だけでなく欧州で売れているとのことだが、このことは日本でも大きく報道されている通りだ。
「売れに売れている」の部分は、ロンドン在住者として実感している。2024年から、行く本屋行く本屋、すべてで『BUTTER』が平積みだった。そして非日本人と会うと「最近『BUTTER』読んだの。ハナコも読んだでしょ?」と読んだこと前提で話をされる。
それが2年以上続いているのだから、凄いのである。
20~15年ぐらい前、ロンドンで「ちょっとインテリっぽい人」「日本も含め、海外カルチャーにも興味あるよ」系の人たちに会うたびに必ず村上春樹の話をされたものだった。でも今は『BUTTER』。村上春樹の新作がでたけれど、それよりも『BUTTER』。そのぐらい、この小説が大きなインパクトを残しているのだと思う。
この作品のことは、日本で発売された頃から知っていた。何故知ったのか? この作品は木嶋佳苗事件に着想を得た小説だと言われているし、柚木氏もインタビュー等でそう答えているが、私は「柚木氏の着想」の大元、木嶋氏が書いているブログで知ったのだ。
柚木氏とは異なる角度だったのかもしれないけれど、私も木嶋佳苗事件に夢中になった1人だ。彼女に関する報道だけでなく、裁判を含めたドキュメンタリーはほぼすべて見ていると思う。
衝撃的な登場、事件の謎、逮捕前の彼女の生活、裁判での発言。何ひとつ共感できないのに、この事件について知りたくなる。「自分に無害なゴシップは大歓迎💛」という人間のどうしようもない習性を刺激する事件に、私自身もとっぷりとはまった。自分のそんなしょうもない性質を自覚した上でガッツリ深堀していた。(あえて言うと、「状況証拠だけで死刑にしてよいのか?」の点にも思いはある。でもそれは後付けで、ゴシップ魂が先行して、の興味だった)。
そして「木嶋佳苗の拘置所日記」と題するブログが2014年1月5日に始まってからは、すべての記事を読んでいる。
このブログの、2017年5月11日の投稿で『BUTTER』を知った。
もちろん木嶋氏がこの本の存在をおもしろく思うはずがない。ブログでめった刺しにしていた。
つい最近まで彼女は、彼女の半生を追ったノンフィクション作品『ウェンカムイ 死刑囚・木嶋佳苗の生痕』(石井妙子・作)を恐ろしい熱量で執拗に批判していた。『BUTTER』に対して、そこまでのすごみと強さで批判しているわけはなかったのは、きっと後半は事件や自分とはリンクしない犯人像になっていたからかもしれない。
「木嶋佳苗の拘置所日記」で知ってすぐに読みたいと思っていた『BUTTER』だったが、ずっと放置してしまった。しかし英国での大ヒット。あまりに「ハナコはこの本、どう思ったの?」と聞かれまくったので、読むことにした。
私は日本語を第一言語とする日本人なので、日本語版を読んだ。Kindleでポチリ。
電子書籍、ありがたい。日本帰国時まで待たなくてはならない時代が終わったことが本当に嬉しい。
<あらすじ>
男たちを虜にし、死へと追いやったとされる
婚活連続殺人事件の女性容疑者・梶井真奈子。
彼女に接見を重ねる週刊誌記者・町田里佳。
拘置所のアクリル板越しに語られる、濃厚なバターと食の快楽に、
里佳の日常は静かに崩れ始める──
女性の欲望と痛みを鮮烈に問い直す傑作長篇
(上記、河出書房新社公式サイトからの転載:出典)
さて、私の感想。
大変おもしろかった。一気に読んだ。バス停でバスを待つ1分も惜しんで読んだ。30秒でも時間があれば、Kindleに目をやった。そんな「読みたい読みたい」衝動が発動する本は久々だった。
「ああ、もうすぐ読み終わってしまう😿」と思った本も久しぶりだった。
しかし謎が深まった。
なぜこの本が、こんなにも英国で大ヒットしたのだろう? 英国在住の『BUTTER』英語版読者(以下「英語版読者」と記述)の心を掴む要素は何なのか?
私がこれほど夢中になって読んだのは、やはりまずは「木嶋佳苗事件への興味」があっての事だったと思う。読み始めてすぐに、あまりにも秀逸な食の描写に惹きつけられた。中盤から物語が実際の事件(報道を通して知った情報)から乖離していくと、「柚木麻子はどう事件を完結させたのだろう?」に興味は移った。
しかし、どこかでいつも遠くに「木嶋佳苗事件」を思いながら読んでいたと思う。
英国の読者の多くは木嶋氏のことをまったく知らない。この本を絶賛する書評でさえ、「実際に起こった事件にインスパイアされている」程度も今年か事件には触れていない。本のヒットにより、この事件が大きく取り上げられたりもしていない。
なのに、なぜ?
いくつかのヒントはある。日本にまだ残る女性らしさを求める風潮についての描写を考えると「フェミニズム文学」とも言える。
しかしそれだけなのだろうか? 日本人の私には、英国における英語版読者の気持ちが本当のところ分からないのだなあ。
■分からないので調べてみた
分からないので『BUTTER』の書評や、SNS投稿をたくさん読んでみた。書かれていることは多岐にわたったが、読んでいると理由は一つではないことが分かる。私なりに整理すると、主に次のような点が繰り返し語られていた。
まず最も多かったのが、「食」の描写である。「こんなにお腹が空く小説は初めて」「読んだあとバターを買いに行った」「バター醤油ご飯を作ってみた」という感想が本当に多い。
バター醤油ご飯の美味しさを英国在住非日本人が分かるのだろうか?とも一瞬思ったが、英国では寿司やラーメンはすでに日常的な食べ物だ。その辺は軽く超えられることなのだろう。それよりも、「食べる」という行為を五感豊かに描く文章そのものが評価されているようだ。「食がマズい国」と世界に知られる英国にもかかわらず(※)、英国には料理本やフードエッセイ、料理番組が根強い人気を持つ「食を書く文化」がある。その読書文化とも相性がよかったのだろう。
(※英国、マズくないですよ。『英国はおいしい』を必死に書いて20年のわたくし)
次に多かったのが、「女性はどうあるべきか」という社会の圧力を描いている点である。女性は細くあるべき、食べ過ぎるべきではない、結婚してこそ幸せ――。こうした価値観は日本よりも断然マシではあるものの、英国の読者も「自分たちの社会にもある」と受け止めた。英国の書評では、本作をフェミニズム小説として位置づけるものも少なくない。
さらに、「現代日本を知ることができる」という声も目立った。英国では近年、日本文学への関心が高まっている。読者が求めているのは、アニメやサムライといったステレオタイプの日本ではなく、現代を生きる日本人の日常や人間関係、仕事や食文化である。『BUTTER』は、その期待に応える作品として受け入れられたようだ。
また、翻訳の評価も非常に高い。英訳を手掛けたPolly Bartonは、日本語特有のリズムや食の描写を自然な英語へと移し替えたことで高い評価を受けている。
私は英語版を全部読んだわけではないけれど、知人から借りて少しだけ読んだ。そして、読んだ範囲では「日本語版と全然印象が変わらない」と思った。凄いと思った。英語で読んだ「バター醤油ご飯」は、日本語版と同じように美味しそうで、思わずごくりと喉を鳴らした。
翻訳文学では、作品そのものだけでなく翻訳者の力量も成功を左右するが、『BUTTER』はその両方がそろった作品だったと言える。
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調べてみて「なるほど」と思った事も多い。でもやはり解せないのは、私が探した限り、多くの読者が「木嶋佳苗事件」に興味をもたない様子であることだ。逮捕当時、日本の多くの人々を「ゴシップ魂」で翻弄したあの人物。こんなにも面白い小説のインスピレーションなのに、なぜ?
おそらく、この小説はあの事件の後押しなんぞなくても面白い作品ということなのだろう。読者はこの小説を読んで大満足する。そこから先に求めるのは「柚木麻子の別の作品」であり、「インスピレーションとなった実際の事件」でも「現実版の梶井真奈子」でもないのだろう。
日本のあの事件を知っている私には、事件の印象が邪魔をして、これほどまでに「事件を知らない人を惹きつけるこの小説のすごさ」がきっと分からないのだ。
この作品が生み出された言語で読んでいるというのに。翻訳版を通じてではあるものの、小説『BUTTER』の本当の面白さを、英国人は私よりも理解しているということか。
何の前知識もない、別の柚木作品を読みたくなった。