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202010/26

言葉は自由の扉を拓くもの:映画『博士と狂人』を見て(ネタバレほぼなし)

ネタバレしない程度のあらすじとレビューです。
4.5 out of 5.0 stars

日本で公開がはじまり、『荻上チキ セッション』でも特集されていた映画『博士と狂人』。イギリスでは昨年公開されたが、そ~んなに大きな話題にはならかった…という印象だ。

テーマ的には見たい内容だったのについつい後回しになっていたが、今回やっと配信サービスで視聴した(なので私が見たのは英語版です)。

あらすじ:
学士号を持たないものの、自力で多くの言語を習得した言語学者ジェームズ・マレー(メル・ギブソン)が主人公。長年の努力が実り、権威あるオックスフォード大学出版局で英英辞典編纂の任務についた。マレーは一般ボランティアを募集して、郵送による言語収集協力を提案。壮大なプロジェクトを船出させるが、語源をたどりつつ編纂していく作業はあまりにも膨大で、アルファベットの「A」の段階ですでに難儀していた。

そんなとき、強力な助っ人が現れる。アメリカ人の元軍医であるウィリアム・チェスター・マイナー(ショーン・ペン)だ。殺人を犯したが心神喪失と認定され無罪となり、精神病院に収監されていた。一般ボランティアの誰よりも多く語彙を送ってくるマイナーに会いたいと思ったマレーは、ある日送付元のブロードムーア精神病院を訪れる。マレーはマイナーのことを病院に勤務する医師だと思っていたが、会って初めてマイナーが患者であり殺人犯だったことを知る。

↑冒頭の4分映像。スリリングな始まり。

■友情と差別を描いた物語

いろいろ語りどころが多い作品なのだが、いくつかあげるとこれは友情と差別の物語だと思う。

友情について、軸となるのは権威ある場所にいる(ように一見見える)学者マレーと殺人犯&狂人マイナーが、同じ夢を見ながら同じ土壌で真の友情をはぐくむ姿だ。しかしこれだけではない。次の軸となるのは、殺人犯マイナーと、誤って殺してしまった(妄想から見ず知らずの人を殺してしまった)被害者の未亡人イライザとの友情。生活が困窮していたイライザを、マイナー何とか救いたいと願う。他にもマイナーと看守、マレー(学位がないので、学術界では最下層)と同僚学者(上流階級のエリート)ファーニヴァルとの友情など、垣根を超えた信頼関係が作品中にちりばめられ、全体的に暗めなシーンの多い映像に温かみを添えている。

↑原作はこちらです。装丁もいいですね。

差別の方の描き方は辛らつだ。ヴィクトリア時代の時代背景と人権意識を背景にしているのでやむなしという部分はあるが、学位を持たないマレーを蔑視する学者たち(学術界のヒエラルキー)、犯罪者や精神疾患者への眼差しの厳しさは見ていて苦しい。でもよく考えてみると、いまでもこの手の差別は変わらないような気がするし、才能にも等級があるのだと気づく。労働者階級の出身者マレーは、生え抜きエリートよりよほど才能があるのだが、「才能の等級」的には下なのだ。映画の後半で、犯罪者であり狂人のマイナーが“権威ある”辞書の協力者であることが問題になるが、犯罪者&狂人の圧倒的な才能は、役に立たない御用学者よりもずっと役に立つのだが、等級的には下なのだ。

辞書編纂の大変さと興味深さの部分は、本好きにはたまらない部分だろう。多くの人がこの点についてレビューしているのでここでは書かないが、この映画を見ながら、同じ辞書編纂を描いた物語である小説『舟を編む』(映画化・アニメ化もされている)を思い出した。

とは言え、2つの作品には大きな違いがある。『博士と狂人』は辞書が存在しない無の状態から1つ1つを集めていく作業であり、『舟を編む』は言葉が移ろいゆくものであることを描いてる。少し視点が異なるが、それぞれに興味深く、そして言葉を美しく、夢のあるものとして描いている点は同じである。

↑映画『舟を編む』のツイッターより。私は小説も映画化版も大ファンです。

↑アニメ版は見ていないのですが、これを機会に見てみます。

■本は「自由」への扉

※ここからはほんの少しだけですが本編の内容を具体的に書くので、鑑賞前に具体的なシーンを何も知りたくない方は読まないでくださいませ。

私がもっとも印象に残ったシーンは、少しずつ友情を築きはじめたころのマイナーとイライザが交わす会話だ。イライザが文盲なことに気づいたマイナーは「僕が読み書きを教える。そして君が子供たちに(読み書きを)教えてあげて」と言うが、イライザは「このままの(読み書きができない)私が私自身だから」と言って拒絶する。

そのとき、マイナーが必死にイライザを諭す言葉に、世の本好きはグッとくるだろう。

↓日本語字幕版を見ていないので、英語からの書き起こしに私が訳を付けたもの。(意訳です)

It’s freedom, Mrs Merrett.
I can fly out of this place on backs of books.
I’ve gone to the end of the world on the wings of words.
(読書は)自由をくれるものなんです、マレット夫人(※イライザのこと)。
本を通じて、ここではない場所に飛び立つことだってできるんです。
言葉の翼を広げ、世界の果てにだっていけるんです。


When I read, no one is after me.
When I read, I am the one who is chasing, chasing after God.
Please, I beg you- join the chase.
本を読んでいるとき、(幻覚に苦しめられるている)私でさえ、誰からも追われることがありません。
本を読んでいるとき、わたしはただ、ただ神の後を追っているんです。
お願いです。お願いだから、一緒にこの喜びを知ってください。

※かなりの超訳です。

1分もない短いシーンだが、この「chasing after God(神の後を追う)」というセリフを聞いて、私は新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章第1節を思い出した。

「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」

映画には少し聖書のこともでてくるが、この時代にとっての聖書は今とはくらべものがないぐらい重要だっただろう。一家にある唯一の書物が聖書で、ここから文字を学んだ人も多かったはずだ。

この聖句の「言(ことば)」とは神の意図のこと、キリスト教用語では「みこころ(御心)」のことである。

殺人を犯してしまったことを悔いているマイナーだが、本を読んでいる時だけは聖人にもなれる。幻覚からも自由になれる。遠い国へも旅立てる。そして読み書きができることで、子供たちにも翼が与えられ、自由に飛び立てる機会を得るかもしれないことを、マイナーは知っている。

神はことばを使って人間にたくさんの愛を伝えている。だから、イライザにも子供たちにも言葉を知ってほしい。きっと子供たちの未来も拓かれ、貧しい暮らしを変えられるかもしれない。

それが自分ができる神の御心にかなう「良いこと」かもしれない―― マイナーはそう思ったのではないだろうか?

ちなみに1870年頃のイギリスの識字率は76%(デラウェア大学調べより)。これは低い数字ではないので、イライザの家族がかなり貧しい暮らしをしていたこと、子どもが学校に行けていないことを意味する。

文字書きを学ぶことを「Freedom(自由)」と表現したこのセリフは重く、美しく心に響いた。

===

評価を4.5にしたのは、要所要所でもうちょっと説明がないと、当時の状況が分からない箇所があったから(辞書編纂の過程や、精神病治療について、マイナーが昔から辞書に執着があったこと等)だが、言葉、文字、本を愛するすべての人のための映画だった。地味な作品ともいえるけれど、本や辞書を開いた時に感じる「この中に詰まった壮大な世界」を改めて思い起こさせる映画でもあった。

インクの匂いや紙の匂いが漂ってきそうな作品だった。

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