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【本のはなし】“普通の人生”なんて、たぶん存在しないのだ。『モーツアルトの息子』(池内紀・著)
苦めのコーヒーに似合う、味わい深い本を紹介しています。
2駅先に住むおじさま(日本人)とちょくちょく会っている。
70代なので、おじいさんでもいいのかもだけれど、一応ここは「おじさま」としておく 。
誰かにこのおじさまのことを話すとき、「よく知っているおじさま」と言っている。しかし年中会っている割に、実はわたしはこのおじさまのことをほとんど知らないのだと最近気づいた。
●50年近く海外で暮らし、 いろいろな国に住んだらしい (たぶん本当。でも何カ国か?とかは知らない)。
●日本語、英語に加え、フランス語、スペイン語が話せるが、他にも話せる言語があるらしい(でもよく知らない)
●いろんな楽器を演奏できる(ピアノとギター以外はよく知らない)
●10歳ぐらい年上の大変美しいイギリス人の妻がいる(これは本当)
●素晴らしく華やかなキャリアがあるらしい(でもよく知らない)
●実家は資産家で、お坊ちゃまだったらしい(でもよく知らない)
●現在はリタイアし、ロンドンに住んでいる(これは本当)
知っているのはこんな程度だが、「たぶん」と「よく知らない」がたくさんある。
漏れ聞こえる噂では、なかなか面白い人生を歩んだと思われるおじさまだ。武勇伝も多そうである。私はこのおじさまの過去を知りたくてこの手あの手で探るのだけど、おじさまはどうも照れ屋さんのようで、全然過去を語らない。
いつかおじさまの「照れ屋の防波堤」を破るか飛び越えるかしたいと思い、虎視眈々とそのチャンスを狙っている。
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池内紀さんの『モーツァルトの息子』は、そのタイトルが気になって手に取った。
映画『アマデウス』は見たけれど、モーツァルトの子どものことはそんなに出てこなかった。どうも子だくさんらしいけれど、モーツァルトの息子ってどんな人生だったんだろう?
破天荒な父親だったし、「モーツァルトの息子」って聞くだけで、背負うものが大きい、そこそこ大変そうな人生が想像できる。
この本に描かれているのは、モーツァルトの息子のことだけではない。歴史の影に埋もれてあまり知られていないけれど、でもなかなかユニークな人生を送った30人について、池内さんが調べ、その足跡をたどっている。
モーツアルトには6人の子どもがいたが、ほとんどが幼少期で亡くなった。生き残ったのは次男と四男(末っ子)。この本では四男を主に取り上げている。才能はあったが、父を越えられなかった「モーツァルト二世」。彼のやたらと移動の多い、ちょっと寂しい人生が描かれている。
私が1番好きな章は『リーケ叔母さん』。リーケとはフリーデリケという女性の名前の愛称。彼女は1873年、37歳のとき私家版『フリーデリケ・ケンプナー詩集』を出版したドイツの詩人だ。その後彼女の詩集は増補と版を重ね、彼女の死後も出版され続けた。現在までで彼女の詩集は数十万部売れているのだから、大詩人のように思うのだが、売れた理由はあっと驚く別の理由なのだというから面白い。
その他にも、天才なのに生まれた時期が悪すぎて死刑になってしまった財政学者とか、
姿の消し方がうますぎて、最後まで生き切った大ペテン師とか、
2度も振られたのに、書簡500通を大事に持ち続けたカフカの元婚約者とか、
歴史に残る人物や事件のそばに偶然居合わせた、でもあまり知られていない“誰かさん”について、丁寧に書かれている。
池内氏の丹念な調べで描かれる30人は、目の前にいるように臨場感を持ってページの中で生きている。とかくオチを探しているわけでもないような静かなタッチでつづられているが、いずれの人生にも予想もつかない出来事が起こっている。
生きざま、死にざま、誰一人として、平凡に生きていない。
と書いてみたものの、そもそも「平凡な人生」「普通の人生」なんてものは、実は存在しないのではなかろうか?
誰一人、同じ人生を送った人はこの世にいない。さまざまな偶然が複雑に交差して人生は続くし、予定通りに人生を送れる人なんていないのだ。
以前、精神科の医師が「たくさんの人の話を聞いてますが、普通の人生ってないですよ」ときっぱり言い切っていたことを思い出した。
挨拶しかしたことのないフラット(マンション)の隣のおねえさんの人生も、きっと「ええっ」とのけ反るような物語に満ちているはずだ。聞くチャンスはなさそうだが、いつもいつも大荷物を抱えている(本当に、いつもどでかいバッグを持っている)。中身が何かは知らないが、毎日大荷物を抱えて生活しているのだから何か深~い理由があるのだろう。そこからひも解くおねえさんの人生も、なかなか面白いのかもしれない。
私自身についていえば、これまでの人生は割と大変だったので、今後は可能な限り穏やかに、“普通っぽい”人生を送りたい。しかしそもそも普通の人生なんてないのだし、人生は予測不能なのだからして、そんな風にはきっといかないのだろうなあ。
やれやれ、だ。
ひとまず、コロナが終息したら、美味しいケーキとコーヒー豆を持参して、 2駅先のおじさまの家に遊びに行こう。
そして長期戦覚悟で、話を聞きだすとするか。
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